建築
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「Less is more」を貫いた完璧主義者──ミース・ファン・デル・ローエが追求した究極のシンプル

いろり
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この記事で学べること:

  • 「引き算の美学」で本質を見極める思考法
  • 細部へのこだわりが全体の完成度を左右する理由
  • シンプルを追求することの難しさと価値
  • 妥協せず理想を貫くことで到達できる境地

「Less is more(より少ないことは、より豊かである)」──この名言を残したのが、ミース・ファン・デル・ローエです。ガラスと鉄骨だけで作られた透明な超高層ビル、一切の装飾を排除した究極のシンプル空間。彼の建築は、現代の都市景観の原型となりました。しかし、そのシンプルさの裏には、想像を絶する完璧主義と執念が隠されていたのです。石工の息子が、いかにして「モダニズム建築の完成者」となったのか。その人生を辿ります。

石工の息子からベルリンへ──職人からの出発

1886年、ドイツのアーヘンという古都で、ミース(本名:ルートヴィヒ・ミース)は生まれます。父は石工の棟梁で、母は裕福な商家の娘でした。幼い頃から父の仕事を手伝い、石を削り、積み上げる技術を身につけます。

この「職人としての訓練」こそが、後のミース建築の基盤となりました。素材の性質を理解し、ディテールにこだわり、手を動かして確かめる──これらは全て、父から学んだ職人の姿勢でした。

正式な建築教育は受けていません。地元の職業学校で製図を学んだ後、15歳で地元の建築家の事務所に見習いとして入ります。そして19歳の時、大きな決断をします。ベルリンへ出る──当時、ドイツの首都として急速に発展していた大都市への挑戦でした。

ベルリンでは、いくつかの建築家事務所を転々とした後、1908年、22歳の時に運命の出会いを果たします。ペーター・ベーレンスの事務所への就職です。

ベーレンスは当時、ドイツ工作連盟の中心人物で、「機能的で美しい工業製品」を追求していました。この事務所には、後に近代建築の巨匠となる若者たちが集まっていました。ル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、そしてミース。3人が同時期に同じ場所にいたのです。

ベーレンスから学んだのは、「構造の正直さ」と「ディテールの重要性」でした。装飾で誤魔化すのではなく、構造そのものを美しく見せる。この思想が、ミースの建築哲学の核となります。

バルセロナ・パビリオン──28日間だけ存在した傑作

1929年、ミース43歳の時、建築史に残る傑作が生まれます。バルセロナ万国博覧会のドイツ館、通称「バルセロナ・パビリオン」です。

この建物は、わずか28日間しか存在しませんでした。万博終了後、すぐに解体されたのです。しかし、その短い期間に、ミースは「完璧な空間」を実現しました。

建物は極めてシンプルです。8本の十字型の鉄柱、大理石とガラスの壁、そして水盤。それだけ。しかし、その配置が絶妙でした。壁は空間を完全には区切らず、柱と壁が独立して配置されることで、「流れる空間」が生まれます。

使用された素材も最高級でした。緑色のアルプス産大理石、金色のオニキス、磨かれたクロームメッキの鉄柱──コストは度外視。ミースは「ドイツの威信を示す」という名目で、一切の妥協をしませんでした。

特に印象的なのが、内部に使われた大理石の選定です。ミースは世界中から取り寄せた大理石サンプルを検討し、最終的に4種類を選びました。緑のアルプス産大理石「ヴェルデ・アンティコ」、金色のオニキス、トラバーチン(石灰華)、そして黒い大理石です。

これらの大理石は、単なる壁材ではありませんでした。ミースは大理石の板を、まるで絵画のように配置しました。特にオニキスの壁は、背後から照明を当てることで、石の内部が半透明に輝く効果を生み出しています。自然の素材が持つ美しさを、最大限に引き出す演出でした。

また、パビリオンには二つの水盤が設けられています。大きな水盤には、彫刻家ゲオルク・コルベの作品「朝」が置かれ、水面に映る空や建物の反射が、空間に奥行きと動きを与えています。もう一つの小さな水盤は、中庭に配置され、来場者を静かな瞑想空間へと誘います。

そして、この空間のために特別にデザインされたのが「バルセロナチェア」です。革張りのクッションとステンレスのフレームで作られたこの椅子は、建築と一体となって空間を完成させました。ミースは椅子さえも建築の一部と考えていたのです。現在でも世界中で愛される名作家具として、オリジナルデザインが製造され続けています。

さらに興味深いのは、このパビリオンが実質的に「何の機能も持たない建築」だったことです。展示物はほとんどなく、ドイツ産業製品の展示スペースとしても使われませんでした。ただ「空間そのものを体験する」ためだけの建築──これは当時としては極めて挑戦的な試みでした。

バルセロナ・パビリオンは解体後、写真と図面だけが残りました。しかし、その影響は絶大でした。「これこそが近代建築の完成形だ」と世界中の建築家が認めたのです。白黒写真でしか見られない「幻の建築」として、建築史の中で神話化されていきました。

そして1986年、オリジナルと同じ場所に、忠実に再建されました。60年近く経っても、その価値は色褪せなかったのです。再建プロジェクトでは、残された図面や写真を詳細に分析し、当時と同じ産地から大理石を調達し、ミリ単位で元の配置を再現しました。現在、バルセロナを訪れる建築学生の「聖地」となっています。

ファンズワース邸──透明な箱という究極の理想

1951年、ミース65歳の時に完成した「ファンズワース邸」は、ミース建築の到達点とも言える作品です。シカゴ郊外の森の中に建つこの週末住宅は、まさに「ガラスの箱」でした。

外壁は全面ガラス。内部の間仕切りもほとんどなし。8本の鉄柱だけで支えられた一枚の床と屋根──究極までシンプルに削ぎ落とされた空間です。「Less is more」を文字通り実現した建築でした。

しかし、この作品には大きな問題がありました。住みにくかったのです。

全面ガラスのため、プライバシーが全くありません。夏は温室のように暑く、冬は寒い。家具の配置も制限されます。施主のエディス・ファンズワース医師は、次第に不満を募らせていきました。

結局、ファンズワースはミースを相手取って訴訟を起こします。「住宅として機能していない」と。裁判は泥沼化し、両者の関係は完全に決裂しました。

ミースにとって、これは大きな痛手でした。自分の最高傑作が、住む人を不幸にしてしまった──この矛盾をどう受け止めるべきか。

しかし、ミースは自分の理想を曲げませんでした。「建築は芸術であり、実用性だけでは語れない」と。確かに住みにくいかもしれない。しかし、この空間に身を置く体験は、他の何物にも代え難い価値がある──そう信じていたのです。

現在、ファンズワース邸は博物館として公開されています。住宅としては失敗だったかもしれませんが、「空間芸術」としての価値は、時を経て認められたのです。

シーグラムビル──完璧なディテールへの執念

1958年、ニューヨーク・マンハッタンに完成した「シーグラムビル」は、ミースの代表作であり、現代の超高層ビルの原型となった建築です。

高さ157メートル、38階建て。ブロンズ色の鉄骨とガラスで構成された、シンプルで力強いフォルム。現在では当たり前に見えるこのデザインも、当時は革命的でした。

ミースのこだわりは、信じられないレベルでした。外壁のブロンズ色の金属は、当初はアルミニウムを塗装する予定でしたが、ミースは「本物のブロンズでなければならない」と主張。コストは5倍以上になりましたが、施主を説得して実現させました。

また、ビルの前面に大きな広場(プラザ)を設けることを提案します。当時のニューヨークでは、敷地いっぱいに建物を建てるのが常識でした。広場を作れば、その分、賃貸面積が減り、収益も下がります。

しかし、ミースは譲りませんでした。「建物は都市の一部であり、公共空間を作る責任がある」と。結果として、このプラザは都市の貴重なオープンスペースとなり、後の超高層ビル建設のモデルとなりました。

さらに驚くべきは、細部へのこだわりです。窓枠の幅、ガラスの反射率、ブロンズパネルの配置──全てが数ミリ単位で計算されています。現場では、ミースの指示で何度もやり直しが命じられ、施工者を泣かせました。

「神は細部に宿る(God is in the details)」──ミースのもう一つの名言です。完璧なディテールの積み重ねだけが、完璧な全体を作る。この信念が、シーグラムビルという傑作を生んだのです。

イリノイ工科大学──教育者としてのミース

1938年、ナチスの台頭によりドイツを離れたミースは、アメリカに移住します。52歳の時でした。そして、シカゴのイリノイ工科大学(当時はアーマー工科大学)の建築学部長に就任します。

ここでミースは、20年以上にわたって教育に携わります。そして、キャンパス全体のマスタープランと主要建築の設計を手がけました。

ミースの教育方針は厳格でした。学生たちには、まず「構造を理解すること」を徹底的に教えます。装飾やスタイルの前に、建物がどう立っているのか、力がどう流れるのかを理解しなければならない──これがミースの信念でした。

また、学生には何度も何度もやり直しを命じました。「もっとシンプルにできないか?」「本当にこの線は必要か?」──削ぎ落とす訓練を徹底的に行ったのです。

この教育方針は、賛否両論を呼びました。「厳しすぎる」「創造性を奪っている」という批判もありました。しかし、ミースの教え子たちの多くが、後に第一線で活躍する建築家となります。

キャンパスに建てられた「クラウンホール」は、ミース建築の集大成と言える作品です。柱のない一室空間、鉄骨とガラスだけの透明な箱──シンプルさの極致がここにあります。

ベルリン新国立美術館──最後の傑作

1968年、ミース82歳の時、故郷ドイツに最後の作品が完成します。「ベルリン新国立美術館」です。

この建築は、ミースの全ての思想が結晶化した、究極のシンプル空間でした。正方形の平面、8本の柱だけで支えられた巨大な屋根、全面ガラスの壁──余計な要素は一切ありません。

特筆すべきは、展示空間がほぼ地下にあることです。地上階は、ただの「空っぽの空間」。何も展示されていない、ガラスと鉄骨だけの箱です。

しかし、この「何もない空間」こそが、ミースの理想でした。用途に縛られない、純粋な空間。訪れる人は、まずこの透明な空間を体験し、そこから地下の展示室へ降りていく──空間体験そのものが、作品となっているのです。

残念ながら、ミース自身はこの建物の完成を見ることができませんでした。1969年、83歳で亡くなります。しかし、彼の遺志を継いだ弟子たちが、ミースの設計を忠実に実現しました。

現在、この美術館は20世紀建築の最高傑作の一つとして、世界中から建築を学ぶ者たちが巡礼に訪れる場所となっています。

「Less is more」の真の意味──シンプルは簡単ではない

ミースの「Less is more」という言葉は、しばしば誤解されます。「シンプルにすればいい」「装飾をなくせばいい」──そんな単純な話ではありません。

ミースのシンプルさは、妥協の結果ではなく、執念の結果です。何度も何度も検討し、削ぎ落とし、残すべきものだけを残す。そのプロセスには、膨大な時間と労力が必要でした。

バルセロナ・パビリオンの柱の位置は、数センチ単位で調整されました。シーグラムビルの窓枠の幅は、何十回も試作されました。ファンズワース邸の床の高さは、周囲の風景との関係を考慮して決められました。

つまり、ミース建築のシンプルさは、「考え抜かれたシンプルさ」なのです。表面的には簡単そうに見えますが、その裏には想像を絶する試行錯誤があります。

また、ミースは素材にも一切妥協しませんでした。最高級の大理石、本物のブロンズ、完璧に研磨されたガラス──高品質な素材だけが、シンプルな空間を成立させることを知っていたのです。

「Less is more」の真の意味は、「本質だけを残す勇気」であり、「ディテールへの執念」であり、「妥協しない姿勢」なのです。

ミース建築の光と影──完璧主義の代償

ミースの完璧主義は、多くの素晴らしい建築を生みました。しかし同時に、多くの問題も生み出しました。

ファンズワース邸のように、住みにくさという実用上の問題。シーグラムビルのような、コスト超過の問題。そして何より、彼と働く人々──クライアント、施工者、スタッフ──との人間関係の問題です。

ミースは自分の理想のためなら、他人の意見を聞きませんでした。何度でもやり直しを命じ、予算を無視し、時には相手を怒鳴りつけることもありました。完璧主義者であると同時に、独裁者でもあったのです。

また、ミースのスタイルは、世界中で模倣されましたが、同時に「画一化」という批判も生みました。どの都市にも似たようなガラスと鉄骨のビルが建ち並び、都市の個性が失われていく──これもミース建築の影響でした。

しかし、それでもミースは自分の道を貫きました。「理解されなくてもいい。完璧を追求するだけだ」と。その頑固さこそが、彼を巨匠たらしめたのかもしれません。

ミース・ファン・デル・ローエから学ぶ「本質を見極める力」

建築学生として、ミースから学ぶべきことは何でしょうか。それは「本質を見極める力」です。

複雑なものをシンプルにする。装飾で誤魔化さず、構造の美しさを見せる。ディテールにこだわり、完璧を追求する──これらは全て、本質を見極める目があってこそ可能になります。

現代は情報過多の時代です。様々なスタイル、トレンド、技術が溢れています。その中で「本当に必要なものは何か」を見極めることは、ますます難しくなっています。

ミースの「Less is more」は、100年近く経った今でも、私たちに問いかけています。「あなたは本質を見ていますか? 無駄なものに惑わされていませんか?」

完璧主義は時に人を苦しめます。しかし、妥協しない姿勢だけが、真に価値のあるものを生み出すことも事実です。

石工の息子が、究極のシンプルを追求し、建築史に永遠に残る傑作を生み出した──ミース・ファン・デル・ローエの人生は、「本質を追求することの美しさ」を私たちに教えてくれるのです。

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いおり
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建築士/二児のパパ
現役の建築士です。
これから建築士の目線で物事を見ていき、解説、紹介等の発信をし、建築が少しでも面白いと思っていただければと思います。

また、二児のパパもしているので、その視点での発信もできたら良いなと思います!

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