バブル期の大失敗から世界的建築家へ──隈研吾が語る「負ける」ことの強さ

- 大きな失敗を乗り越え、自分のスタイルを確立する方法
- 「目立つ」ことより「調和する」ことの価値を見出す思考法
- 伝統と現代を融合させる具体的なデザインアプローチ
- 逆境をチャンスに変える、「負ける建築」という哲学
2021年、東京オリンピックのメイン会場となった新国立競技場。木材をふんだんに使った温かみのあるデザインで世界を魅了したこの建築を手がけたのが、隈研吾です。しかし、今でこそ「日本を代表する建築家」と呼ばれる彼にも、キャリアを揺るがす大失敗がありました。その失敗こそが、現在の隈建築を生み出す原点となったのです。
東大卒エリートの挫折──M2ビルという「黒歴史」
1954年生まれの隈研吾は、典型的なエリートコースを歩んできました。東京大学建築学科を卒業後、コロンビア大学で学び、大手設計事務所を経て独立。順風満帆に見えた30代前半、彼は運命の転機を迎えます。
1991年、バブル経済真っ只中に完成した「M2ビル」。東京・世田谷の住宅街に突如現れた、巨大な円柱を抱えた奇抜なポストモダン建築です。ギリシャ神殿を思わせる円柱、派手な色彩、圧倒的な存在感──当時のトレンドを象徴する、まさに「バブル建築」でした。
建築雑誌では話題騒然。若き隈研吾の名は一気に知れ渡ります。しかし、それは良い意味だけではありませんでした。「周辺環境を無視している」「傲慢な建築だ」──地域住民からも、建築界からも、厳しい批判が相次いだのです。
さらに追い打ちをかけたのが、バブル崩壊でした。M2ビルの施主は経営難に陥り、建物自体も数年後に用途が変更されます。隈自身、この時期を「どん底だった」と振り返ります。
しかし、この失敗が隈を変えました。「建築は自己主張するものではない。周囲と調和し、場所に溶け込むべきだ」──この気づきが、後の「負ける建築」という思想につながっていくのです。
「負ける建築」とは何か──弱さを強さに変える発想
M2ビルの失敗から数年後、隈は一冊の本を出版します。タイトルは『負ける建築』。建築が「勝とう」とするのではなく、自然や環境に「負ける」ことで、より豊かな関係性を築けるという、逆説的な思想を提示しました。
「負ける」とは、決して諦めることではありません。むしろ、建築の存在を主張しすぎず、謙虚に周囲と対話することを意味します。コンクリートの塊で環境を支配するのではなく、木材やルーバーで建築を「消していく」。この発想転換が、隈建築の核心です。
実際、M2以降の隈作品を見ると、その変化は明白です。1995年の「亀老山展望台」では、展望台そのものを地形に埋め込み、遠くからは建築が見えないようにデザインしています。建築が風景の一部となり、訪れた人だけがその存在に気づく──これこそ「負ける建築」の実践でした。
この思想は、日本の伝統的な美意識である「わび・さび」や「引き算の美学」を、現代建築の言葉に翻訳したものとも言えます。西洋建築が「足し算」で豊かさを表現するのに対し、隈は「引き算」で豊かさを追求しました。
木材という武器──伝統素材の現代的再解釈
隈建築を語る上で欠かせないのが、木材への圧倒的なこだわりです。しかし、なぜ木なのか。
隈は「木材は人間の身体に最も近い素材」だと語ります。コンクリートや鉄は硬く冷たい。対して木は、温かみがあり、触れたくなる質感を持っています。また、経年変化によって味わいが増していく──時間とともに育つ素材でもあります。
代表作「浅草文化観光センター」では、伝統的な木組み技術をガラスと組み合わせ、現代的な表現へと昇華させました。外観は木製ルーバーで覆われ、昼は光と影の美しいパターンを生み、夜は内部の光が柔らかく漏れ出します。
2015年完成の「ホテルロイヤルクラシック大阪」では、国産の杉材を約3,000本使用。木材の持つ調湿効果や香りによって、宿泊客に心地よい空間体験を提供しています。
興味深いのは、隈が使う木材の多くが、地元の材木を優先していることです。「地産地消」の建築とも言える手法で、地域経済への貢献と、その土地固有の風景づくりを両立させています。
世界が認めた「消える建築」──海外プロジェクトの数々
2000年代以降、隈の活動は国際的に広がります。特に評価されたのが、2009年完成の中国「竹の家」(グレートウォール・コミュニティ)です。
万里の長城近くの山間部に建つこの別荘は、その名の通り、竹を主要素材として使っています。しかし、単に竹を使っただけではありません。地元で調達した竹を、伝統的な組み方と現代的な構造技術で組み合わせ、山の斜面に溶け込むように配置しました。
遠くから見ると、竹林の中にほとんど建物が見えません。近づいて初めて、その存在に気づく。この「消える建築」の手法が、国際的に高く評価され、以降、ヨーロッパや北米からも設計依頼が殺到するようになります。
2020年には、パリの「LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー)」の複合施設「ラ・サマリテーヌ」の改修を手がけました。歴史的建造物の保存と現代的な機能性の両立という難題に対し、隈は内部にガラスと金属のルーバーを用いた吹き抜け空間を挿入。古いものと新しいものが対話する、見事な空間を実現しました。
新国立競技場──最大の挑戦と成功
2021年、隈のキャリアにおける最大のプロジェクトが完成します。東京オリンピックのメイン会場、新国立競技場です。
実は、このプロジェクトには複雑な経緯がありました。当初、ザハ・ハディドの斬新なデザインが採用されていましたが、予算超過と景観問題で白紙撤回。国際的な批判を浴びる中、隈研吾の案が選ばれたのです。
隈が提示したのは、ザハ案とは正反対のアプローチでした。巨大で未来的なデザインではなく、周囲の明治神宮の森に調和する、「森の競技場」というコンセプト。外観は木材のルーバーで覆われ、日本の伝統建築を思わせる水平ラインが強調されています。
内部には全国47都道府県の木材が使用され、日本全体の技術とアイデンティティを結集した建築となりました。高さも抑えられ、圧迫感を与えない配慮がなされています。
オリンピック開催後、この競技場は国内外から高い評価を受けました。「日本らしさを現代的に表現した」「環境に優しく、持続可能な建築」──かつてM2で批判された隈が、今度は日本を代表する建築で成功を収めたのです。
地方創生への貢献──建築で地域を元気にする
近年、隈が力を入れているのが、地方都市での建築プロジェクトです。「スターバックス太宰府天満宮表参道店」「高知県立林業大学校」「角川武蔵野ミュージアム」など、全国各地に隈建築が誕生しています。
特徴的なのは、それぞれの建築が「観光資源」となり、地域に人を呼び込んでいることです。例えば、富山県の「スターバックス富山環水公園店」は、「世界で最も美しいスターバックス」として国際的に話題となり、年間100万人以上が訪れる観光スポットになりました。
隈は「建築は、その場所にしか建てられない」と語ります。東京で成功したデザインを地方にコピーするのではなく、その土地の素材、気候、歴史、文化を徹底的にリサーチし、「そこにしかない建築」を作る。この姿勢が、地域の人々からも支持される理由です。
また、地元の職人や素材を積極的に活用することで、地域経済への貢献も実現しています。建築が単なる「箱」ではなく、地域コミュニティを活性化させる「触媒」となる──これが隈の目指す建築の姿なのです。
隈研吾から学ぶ「失敗との向き合い方」
建築学生やデザイナーとして、隈研吾から学ぶべきことは何でしょうか。それは、失敗を恐れないこと、そして失敗から学ぶことの大切さです。
M2という大失敗がなければ、今の隈建築は存在しなかったでしょう。批判を受け、挫折を味わったからこそ、彼は自分の建築哲学を根本から見直すことができました。「勝つ建築」から「負ける建築」へ。この180度の方向転換こそが、隈を世界的建築家へと押し上げたのです。
また、隈の姿勢からは「謙虚さの強さ」も学べます。自己主張を抑え、環境や伝統に敬意を払い、素材や職人の技術を活かす。一見、控えめに見えるこのアプローチが、結果として最も強い印象を残す建築を生み出しています。
70歳を迎えた現在も、隈は世界中で年間30以上のプロジェクトを同時進行させています。その原動力は、「もっと良い建築を作りたい」というシンプルな探究心です。
バブル期の失敗から学び、日本の伝統を現代に活かし、世界で戦い続ける──隈研吾の生き方は、すべてのクリエイターにとっての教科書なのです。