建築雑学
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時計職人の息子が「近代建築の父」になるまで──ル・コルビュジエの革命と矛盾

いろり
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この記事で学べること:

  • 独学と旅から世界的巨匠になった具体的なプロセス
  • 常識を破壊し、新しいルールを作る革命的思考法
  • 理想と現実のギャップに向き合い続ける姿勢
  • 失敗や批判を恐れず、挑戦し続けるクリエイターの生き方

「住宅は住むための機械である」──この衝撃的な言葉を残したのが、ル・コルビュジエです。20世紀建築に最も大きな影響を与えた建築家として知られる彼ですが、実は正式な建築教育を受けたことがありません。スイスの小さな町で時計職人の息子として生まれた青年が、いかにして建築界の革命家となったのか。その波乱万丈の人生には、現代を生きる私たちへの多くのヒントが隠されています。

建築学校を出ていない「近代建築の父」

1887年、スイスのラ・ショー=ド=フォンという小さな町に、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(後のル・コルビュジエ)は生まれます。この町は時計産業で有名で、父も祖父も時計職人でした。当然、彼も時計職人になることが期待されていました。

13歳で美術学校の装飾美術科に入学しますが、これは建築学科ではありません。時計の文字盤に装飾を施す職人を養成するコースでした。しかし、運命を変えたのが、恩師シャルル・レプラトニエとの出会いです。

レプラトニエは若きジャンヌレに「時計ではなく、建築を学びなさい」と勧めます。そして18歳の時、人生初の建築設計となる「ファレ邸」を手がけることになります。驚くべきことに、この時点で彼は建築の正式な教育を一切受けていませんでした。

しかし、この「素人性」こそが、後のコルビュジエの強みとなります。既存の建築様式に縛られない自由な発想、常識を疑う批判的精神──これらは、伝統的な建築教育を受けなかったからこそ培われたものでした。

旅が作った建築家──6年間のヨーロッパ放浪

20代前半、コルビュジエ(当時はまだジャンヌレ)は6年間にわたってヨーロッパ中を旅します。この「グランドツアー」が、彼の建築観を決定づけました。

イタリアではルネサンス建築を、ギリシャではパルテノン神殿を、トルコではイスラム建築を、自分の目で見て、スケッチし、測り、考える。当時は写真も少なく、インターネットもない時代です。実際に現地を訪れ、身体で感じることが、唯一の学習方法でした。

特に衝撃を受けたのが、ギリシャのパルテノン神殿でした。完璧な比例、光と影の美しさ、幾何学的な純粋性──この体験が、後の「ドミノシステム」や「モデュロール」といった彼独自の理論へとつながっていきます。

また、ドイツではペーター・ベーレンスの事務所で短期間働き、そこで若き日のミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスと出会います。後に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれることになる若者たちが、同じ時期に同じ場所にいたのです。

29歳の時、彼はスイスに戻らず、パリに定住することを決意します。そして、本名のジャンヌレを捨て、祖先の名前から「ル・コルビュジエ」というペンネームを名乗り始めます。新しい人生、新しいアイデンティティの始まりでした。

「住宅は住むための機械である」──革命的マニフェスト

1923年、36歳のコルビュジエは一冊の本を出版します。『建築をめざして』──この本は、建築界に衝撃を与え、近代建築運動の聖書となりました。

その中で彼が主張したのが、冒頭の「住宅は住むための機械である」という言葉です。機械のように合理的で、機能的で、無駄のない住宅を作るべきだ──この思想は、装飾過多だった19世紀建築への痛烈な批判でもありました。

さらに彼は「近代建築の五原則」を提唱します。

  1. ピロティ – 1階を柱だけにして、地面から建物を持ち上げる
  2. 自由な平面 – 柱と床だけの構造により、壁を自由に配置できる
  3. 自由な立面 – 構造から解放された外壁で、窓を自由に配置できる
  4. 水平連続窓 – 横に長い窓で、室内に均一な採光をもたらす
  5. 屋上庭園 – 陸屋根の上を緑化し、都市に自然を取り戻す

これらの原則は、当時としては極めて革新的でした。伝統的な建築の約束事を全て破壊し、新しいルールを作る──まさに建築革命でした。

1931年完成の「サヴォア邸」は、この五原則を完璧に体現した作品として知られています。パリ郊外の緑豊かな敷地に建つこの白い箱は、まるで空中に浮かんでいるようです。内部はスロープでつながり、屋上には庭園があり、大きな窓からは周囲の風景が額縁のように切り取られています。

モデュロール──身長183cmの人間を基準にした寸法体系

コルビュジエのもう一つの重要な業績が、「モデュロール」という独自の寸法体系です。これは人体の寸法と黄金比を組み合わせた、調和の取れた比例システムでした。

興味深いのは、このモデュロールが身長183cmの人間を基準としていることです。しかし、コルビュジエ自身の身長は165cm程度だったと言われています。なぜ自分より18cmも高い身長を「理想」としたのか。

これには諸説ありますが、一つには当時の英国人男性の平均身長が約183cmだったことが関係していると言われます。国際的に通用する基準を作りたかったコルビュジエにとって、より大きな身長を基準とすることが合理的だと判断したのでしょう。

また、彼の妻イヴォンヌは背が高く、実際の設計では彼女の身体寸法を参考にすることも多かったようです。理想と現実、理論と実践の間で揺れる──これもまた、コルビュジエの人間らしい一面です。

モデュロールは、その後の彼の全ての作品で使用されました。「ユニテ・ダビタシオン」では、各住戸の天井高から窓の高さまで、全てがモデュロールに基づいて設計されています。

ユニテ・ダビタシオン──理想都市の実験

第二次世界大戦後、コルビュジエは「ユニテ・ダビタシオン(住居単位)」という集合住宅を設計します。1952年、フランス・マルセイユに完成したこの建物は、彼の都市計画思想を具現化した作品でした。

高さ56メートル、337戸の住宅に加え、屋上には幼稚園、中間階には商店街、1階にはホテルやレストランが入る──つまり、この建物一つで「垂直の都市」を作ろうとしたのです。住民は建物から出なくても、日常生活のほとんどを完結できます。

外観は荒々しいコンクリート打ち放し。これは「ブリュタリズム(野蛮主義)」建築の先駆けとなりました。型枠の木目がそのまま残る表面は、当時の「建築は滑らかであるべき」という常識を打ち破るものでした。

しかし、このユニテは賛否両論を巻き起こします。「人間を箱に詰め込んでいる」「冷たく非人間的だ」という批判も多くありました。実際、住民の中には「監獄のようだ」と感じる人もいたようです。

それでも、コルビュジエは理想を諦めませんでした。その後、フランス国内に複数のユニテを建設し、思想を実践し続けました。完璧ではなかったかもしれませんが、彼は自分の信念を貫き通したのです。

ロンシャンの礼拝堂──直線から曲線へ

1955年、コルビュジエ68歳の時、それまでの彼の建築からは想像もつかない作品が完成します。「ロンシャンの礼拝堂」です。

白い壁、曲線を描く屋根、不規則に配置された色ガラスの窓──それは、幾何学的で直線的だった初期の作品とは全く異なる、有機的で彫刻的な建築でした。まるで巨大な船が丘の上に座っているようです。

この劇的な変化に、建築界は困惑しました。「近代建築の五原則はどこへ行ったのか」「コルビュジエは変節したのか」──しかし、彼自身は一貫していると主張します。

「建築は光の下に集まった立方体の巧みで正確で素晴らしい遊びである」と以前語っていたコルビュジエ。ロンシャンは、その定義の「立方体」を「曲面」に拡張しただけだと。形は変わっても、光と陰影で空間を作るという本質は変わっていないのだ、と。

実際、礼拝堂内部に入ると、色ガラスから差し込む光が神秘的な雰囲気を作り出しています。直線的な機械美から、より人間的で精神的な建築へ──晩年のコルビュジエは、新たな境地を開いていたのです。

インドでの大プロジェクト──チャンディーガル都市計画

1950年代、コルビュジエは人生最大のプロジェクトに挑みます。インド北部の新首都チャンディーガルの都市計画です。

イギリスから独立したばかりのインドは、新しい時代を象徴する近代都市を求めていました。コルビュジエは、この白紙の土地に、自分の理想都市を実現するチャンスを得たのです。

彼は碁盤の目状の街区、広大な緑地、そして巨大な政府建築群を計画しました。議事堂、高等裁判所、秘書局──これらの建物は、コンクリートの力強さと彫刻的な美しさを兼ね備えています。

しかし、このプロジェクトも批判にさらされます。「西洋の建築家がインドの文化を無視している」「暑い気候に適していない」「人間のスケールを無視した巨大主義だ」──様々な指摘がなされました。

実際、チャンディーガルは完璧な都市とは言えませんでした。強烈な日差しを遮る工夫が不足していたり、自動車を前提とした設計が歩行者を軽視していたり──理論と現実のギャップは確かに存在しました。

それでも、チャンディーガルはコルビュジエの遺産として現在も機能し続けています。そして2016年、この都市の建築群はユネスコ世界遺産に登録されました。不完全でも、挑戦し続けた姿勢が評価されたのです。

矛盾する巨匠──天才と独裁者の狭間で

コルビュジエという人物は、多くの矛盾を抱えていました。民主的な住宅を唱えながら、自分の意見を絶対視する独裁的な面もありました。「住むための機械」と言いながら、晩年は精神性を重視した建築を作りました。人間中心を謳いながら、時に人間のスケールを無視した巨大建築を設計しました。

また、彼の都市計画思想は、後世に大きな影響を与えましたが、同時に多くの問題も生み出しました。高層ビル群と広い道路という彼のビジョンは、世界中の都市で実現されましたが、結果として人間味のない無機質な都市空間を作り出してしまったという批判もあります。

1965年、コルビュジエは地中海で泳いでいる最中に心臓発作を起こし、77歳でこの世を去ります。最期まで現役で、挑戦し続けた人生でした。

ル・コルビュジエから学ぶ「不完全な革命家」の生き方

建築学生として、私たちはコルビュジエから何を学ぶべきでしょうか。それは「完璧でなくても、挑戦し続けること」の価値です。

コルビュジエの全ての作品が成功したわけではありません。批判も多く、理想と現実のギャップに苦しむこともありました。しかし、彼は決して諦めませんでした。失敗から学び、思想を進化させ、死ぬまで新しいことに挑戦し続けました。

また、彼の生き方からは「正式な教育がなくても、情熱と努力で道は開ける」というメッセージも読み取れます。建築学校を出ていなくても、旅と独学で世界最高峰の建築家になれる──これは、すべての学習者にとっての希望です。

そして何より、「時代を変えるには、常識を疑う勇気が必要」だということ。既存のルールに従うのではなく、新しいルールを作る。批判を恐れず、自分の信念を貫く。この姿勢こそが、真の革命家の条件なのです。

近代建築の父、ル・コルビュジエ。彼の遺産は、今も世界中の建築に生き続けています。

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建築士/二児のパパ
現役の建築士です。
これから建築士の目線で物事を見ていき、解説、紹介等の発信をし、建築が少しでも面白いと思っていただければと思います。

また、二児のパパもしているので、その視点での発信もできたら良いなと思います!

Amazonのアソシエイトとして、建築座は適格販売により収入を得ています。
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